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城長茂 城資長 小沢景俊 杵淵重光 津波田宗親 乗丹 橋田太郎
富部家俊 笠原頼直          

城 長茂 (じょう ながもち) 1152-1202
■義仲と争うが敗走してしまう
 城資長の弟で、城四郎長茂という。元々は助茂という名であったが、平清盛より長茂に改名された。
義仲追討の命を受け準備をしていたが、出兵直前に倒れ急死してしまう。そのため急遽後を継いだのがこの長茂であった。後を継いだ直後に越後守に任じられ、一旦は兄・資長の死んだ直後なので不吉と辞退するが勅命のため受けることとなった。合わせて長茂に改名している。
 1181年、4万騎を率いて源義仲との横田河原の戦いに臨むが、大勢に関わらず初戦から苦戦が続いた。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
54 88 17 71 36 50 15 86
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
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城 資長 (じょう すけなが) ?-1181
■義仲追討の準備をするが急死
 城太郎資長といい、資長は資永、助永ともかく。資長近親では後を継いだ長茂、武勇が優れた坂額御前らの兄弟、また建仁の乱に参加した子の資盛ら有名である。城氏は平国香の次男・繁盛から始まる
 平氏から義仲追討の命を受けたが急死。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
55 81 33 57 51 25 27 79
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
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小沢 景俊 (おざわ かげとし) ?-?
■横田河原の戦いで先鋒を務める
 小沢左衛門尉景俊という。信濃国の住人で後に城氏に従う。源平盛衰記に登場。城長茂が信濃に侵攻した横田河原の戦いの際、先鋒として軍を率いた。信濃国の住人ということで滋野(海野)氏の支族と考えられる。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
43 79 29 42 50 51 25 63
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
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杵淵 重光 (きねぶち しげみつ) ?-1181
■主・富部家俊の仇討ちをする
 杵淵小源太重光という。源平盛衰記に登場する人物。信濃国住人で富部家俊の郎党であったが、人の讒言によって勘当され横田河原の戦いに従軍することができなかった。そのため自ら足を運び、名のある将を討ち取って勘当を許してもらおうとしていた。
 戦場で主・家俊を探し回っていたところ、佐井七郎弘資が討ち取ったとの話を聞く。佐井七郎弘資を見つけると逃げ出したのでこれを追いかけ、自分もろとも馬から引きずり落とし首を取った。主・家俊の首と討ち取った弘資の首を並べて遅参の詫び、敵を討ち取ったことを告げた。その後、弘資の郎党らと戦い力尽きて自刃して果てた。源義仲はこれを見て敵ながら惜しんだという。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
26 77 17 10 55 40 23 61
和歌 音楽 奇略 操船 貴種      
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津波田 宗親 (つはだ むねちか) ?-?
■城長茂の一軍を率い上田越えをする
 津波田庄司大夫宗親という名で源平盛衰記に登場。城長茂が信濃に侵攻した横田河原の戦いの際、3つに分けたルートの内、一万騎を引き連れ上田越えルートを担当した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
51 74 26 41 42 41 22 72
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乗丹 (じょうたん) ?-1181
■慧日寺の衆徒頭で横田河原の戦いに参戦
 平家物語に登場。乗丹は城丹と記述されることもあり城氏の一門と考えられる。乗丹坊の名の方が有名かもしれない。陸奥国会津慧日寺(現在の恵日寺)の衆徒(僧侶だが主に僧兵)頭であった。この慧日寺は東大寺を出た僧・徳一によって807年によって開かれた真言宗豊山派の寺である。その後一大勢力を誇るようになっていった。平安末期になると越後城氏との関わりが強くなり、城資長(資永)から越後国の小川庄を寄進されることもあった。
 1181年の横田河原の戦いに城長茂の援軍として参戦。しかし戦死し、城長茂も敗走してしまう。この乗丹の死亡によって慧日寺の勢いは一時的に衰退した。現在の恵日寺に乗丹の供養塔がある。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
69 60 48 13 62 44 53 57
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橋田 太郎 (はしだ たろう) ?-?
■城長茂より一軍を預けられる
 越後国の住人で城長茂の郎党。源平盛衰記に登場。城長茂が信濃に侵攻した横田河原の戦いの際、3つに分けたルートの内、この橋田太郎の他、浜小平太が一万騎を引き連れ筑摩越えを担当した。
 橋田太郎に関する記述はかなり上記のみだが、橋田氏は現在の新潟県五泉市周辺で勢力を誇っていた一族であることが分かっている。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
55 67 18 39 52 52 29 68
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富部 家俊 (とみべ いえとし) ?-1181
■面子を賭けて戦う元北面武士家弘の子
 富部三郎家俊という。源平盛衰記に登場する信濃国の住人。1181年の横田河原の戦いにその名が見える。
 義仲勢である高山党が笠原頼直に攻められ劣勢に陥っていたのを悔しく感じた佐井七郎弘資が50騎を連れて進んでいるとこの富部家俊が13騎を連れて立ち塞がった。
 佐井七郎弘資が家俊を愚弄すると、「鳥羽法皇の頃に北面の武士であった下野兵衛大夫正弘の嫡子左衛門大夫家弘は保元の乱の時に崇徳上皇側として戦ったため、奥州に流された。家弘の子が富部三郎家俊である」と言い返す。
 佐井七郎弘資とこの家俊は衝突し、弘資は15騎、家俊は9騎に減った。しかしお互いにプライドが賭けており、引くに引けない状態となっており再び衝突する。この際二人は組み合って戦うが、疲労していた家俊は討ち取られてしまった。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
32 75 14 24 45 36 25 69
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笠原 頼直 (かさはら よりなお) ?-?
■義仲を脅威となった信濃国の住人
 笠原平五頼直という。信濃国の住人。常に平氏に属した人物である。平家物語、源平盛衰記、吾妻鏡にその名が見られる。
 1180年、以仁王の挙兵した宇治川の戦いで、源頼政と対峙する平氏軍の中にその名がある。
 同1180年、頼直は源義仲討伐軍を起こす。これを察知した信濃源治である村山七郎義直らと信濃国市原で対峙した。これが市原の戦いである。頼直は村山勢を劣勢に追い込むが、源義仲の加勢があり越後へと敗走する。
 市原の戦いの翌年1181年、越後の城長茂が信濃へと侵攻、横田河原の戦いが始める。しかし大軍でありながら越後の城長茂は初戦から不利であり、その加勢として頼直を呼ぶ。それに対して頼直は甥の笠原平四郎らと共に横田河原に陣を敷いた。
 この戦いで笠原頼直は老年ながら義仲軍を散々に打ち破る活躍をしている。しかし肝心の城長茂軍は結局敗走してしまい。
この時頼直は越後勢を非難しながら出羽国へと落ち延びて行った。以後消息不明である。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
59 79 49 51 52 36 31 74
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